宮本義宣住職

「お寺に行くのが好き」になってもらえれば
熱心にお寺に通って来られるご門徒に、「どうしていつもお寺に来てくださるのですか」と尋ねると、「お寺に行くのが好きだからです」と、お答えになりました。そうか、好きになってもらえればいいことなのかと気づかされました。「お寺に行くのが好き」になってもらえるように、努めてまいります。

覺王山髙願寺住職 宮本義宣

 

 

 

 

 

 

 

 

髙願寺の歴史と縁起写真
「阿弥陀堂領朱印状」
1698(元禄11)年4月18日

髙願寺の歴史と縁起写真
「棟札」
1754(宝暦4)年に建てられた前本堂の棟札

髙願寺の歴史と縁起写真
「寿毫堂の墓」

髙願寺の歴史と縁起写真
「宮内学舎の絵」
木造平屋の草屋根で、建築費およそ320円。ちょっと広めの教室と小さな応接間と職員室。

悩みながら生きる

お釈迦さまは、「人生は苦である」と、最初のご説法で説かれたと伝えられています。「生老病死」という四つの苦悩から誰一人逃れることができないということでした。
 つまり、思い通りにならない「いのち」を生きなければならないのが、娑婆を生きる私自身なのだということと受け止めています。
 言い換えれば、悩みながらどう生きていくのかを、私たちは日々の生活のなかで考え続けていくというのが生きるということではないでしょうか。

仏さまの智慧に生きる

 「あきらめて生きよ」と仏教は突き放して言うのではなく、思い通りにならない「いのち」を踏ん張って生きなければならない私に、仏さまの智慧をいただきながら生きていきなさいと支えてくれているのが仏教なのです。
 「仏さまの智慧を依りどころに生きる」ということは、私たちは自分の「ものさし」をもって生きていますが、もう一つ、仏さまの「ものさし」をいただいて生きることができるのだ、ということだと思います。
 私の ものさし は、自分の経験や知識に基づくものです。たぶんに地域性や時代性のなどの環境の影響を受けたものです。私のなかでも時と場合によって伸びたり縮んだりする ものさし なのです。
 一方、仏さまのものさしは、時や場所を超えて、いつでもどこでも常に一定の ものさし なのです。つまり、私の都合で変わってしまう ものさし をもちながらも、私たちはいつでもどこでも変わらない普遍的な ものさし をよりどころに生きていけるのです。
 お寺は、仏さまの教えを聞く道場であると言われてきました。仏さまの教えを聞きながら、何一つ思い通りにならない、わが「いのち」をともに生きていきましょう。どうぞ、どなたでもお参りください。

 

髙願寺縁起

江戸の要衝、小杉御殿を守り固めた
サムライ寺

覺王山髙願寺は、親鸞聖人宗祖の浄土真宗本願寺派の寺で、二ヶ領用水の開削の頃にあたる 1603~1609(慶長8~14)年の直前の時期に開かれた。

寺伝によれば、新田義貞の子義興、義宗らが上野で兵を挙げ鎌倉へと進み後、足利尊氏との鎌倉争奪戦の戦乱の影響を市内でも被り、その家臣の霊を弔うための草庵として始まる。その後、庵を改めて真言宗の一寺となった。

今からおよそ370年前の徳川三代将軍家光の時代、1638(寛永15)年に西本願寺第十三代良如上人に随喜した順徹によって、浄土真宗本願寺派に改宗された。神地(ごうじ)の光円寺も帰依寺であった。

髙願寺は、江戸時代の重要な街道であった中原街道と府中街道との交差する位置にあり、府中街道と二ヶ領用水に囲まれたその寺領は、阿弥陀堂領として江戸幕府より賜受されたものであった。帯刀を許されていた家来もいたところから俗称「侍寺」とも呼ばれていた。また、髙願寺は、中原街道沿いの西明寺、泉択寺とあわせて、江戸幕府の小杉御殿の守り固めの役割も果たしていた。

また、髙願寺は、宮内の学校教育の発祥の場として、寺小屋教育も行なわれていた。時には用水をめぐる利水、地境の争いの調停役に住職があたることもあったという。

当初の本堂・庫裡は、1753(宝暦3)年に灰燼に帰しており、翌1754(宝暦4)年、當山第七代南順は再建に取りかかり、同年3月26日には上棟した記録が前本堂の棟札から知ることができる。前本堂は、宮内村の清水喜右衛門棟梁によるもので、堂内の内外陣を分かつ大欄間の一枚彫りの雲水竜は、長谷川久蔵作。雲鳳凰は第八代円海の作であった。

しかし、1982(昭和57)年2月26日、再び火災により本堂は焼失し、現在の堂宇は1987(昭和62)年に再建されたものである。

また、2005(平成17)年、寺号を「髙元寺」から江戸時代中期ごろまで名のっていた「髙願寺」に改称する。

学校教育の発祥の寺

川崎市で最も古い寺子屋が髙願寺に開設

江戸時代中期以前から川崎市で最も古い寺子屋が当寺に開設され、広い地域から通う民衆の子弟等の教育にあたっていた。境内にある1760(宝麿10)年に没した手習い師匠の寿毫堂の墓には、筆弟201人と刻んである。

1873(明治6)年、寺子屋は「宮内学舎」と名づけられた。当時の記録によれば1ヶ月4銭6厘の授業料で生徒数 男15人 女38人 計53人の生徒が学んでいる。のちに、「宮内学校」と改称され、1901(明治34)年「小杉学校」「丸子学校」とが合併されて「尋常中原小学校」が創設された。